半年前のあの日、思わず聞いてしまった彼の言葉を わたしは今も忘れる事ができない。

ぐい と、肩にかけていたタオルで額の汗を拭った。まだ6月だというのに暑い、こうして動き回っていれば尚更だ。年中行事のうちのひとつ、球技大会は一日がそれで終わる。女子バスケに出場したわたしのチームは、三回戦まで行って隣のクラスに負けた。

「思ったより勝ち上がれたね」 「もーバテバテだけどねー、」

なんでこう、体育館って蒸すかなー と、同じ班で出場していた友達はぐったりとした表情で言った。「外!うちのクラスの男子サッカーまだ負けてないって!」「マジ!?行こ行こー!」陽にあたりたくないと、固まっていた同じクラスの女の子達はこぞって体育館から走り出て行く。「どうするー」「…どうする、って」「観に行くかって聞いてんのー」てゆーか悩むくらいなら行くよー と、どうしようか すぐに返事が出来なかったわたしの手首を掴んで彼女はぐいぐいと外へと引っ張っていく。

体育館を一歩出た途端、肌を刺すような陽の暑さに二人揃って顔を顰めた。「暑い。やっぱやめよっかな」「えー、どっち…!」急に立ち止まって、手を離された。「観に行きたーいー?」「行きたい、よ!」意地悪に彼女に問われて、わたしは諦めて少し大きな声を出して答え、恥ずかしさを隠すためにずんずん先を歩いていく。

試合はどうやら、決勝戦らしかった。対戦同士のクラスだけではなく、他のクラスの観戦者も含めてたくさんの人がぐるりと囲んでいてとても騒がしかった。人垣を半周して ようやく自分のクラスの塊を見つけ、二人で強引に身体を割り込ませて初めて中を観る事が出来た。

「たぁーーじまーー!行けー!」 「うちのクラス勝ってんじゃん!」 「わ、ほんとだ、がんば─……」

スコアボードを見て、うちのクラスがリードしているのを確認しボールの行方を目で追った先に彼を見つけてわたしは思わず視線を落とす。それを見られてしまったのか、隣から「大丈夫?」と少し心配したように声を掛けられた。「だいじょうぶ」と、わたしはかろうじて返事をして 思い切ってもう一度顔を上げる。

「阿部ー!入れろー!」

野球部の彼らが、普段のそれよりも大きいボールを蹴り走っている様はなんだか不思議だった。クラスメイトの阿部くんが、ゴールした瞬間ものすごく大きな歓声が湧き上がる。3-1、残り7分、勝負は決まったも同然だった。歓声の輪の中心で、同じ野球部の田島くんに肩を組まれ称賛されるのはさすがに恥ずかしかったのかすこし照れている様子だった。あっというまに試合は終了し、見事優勝を果たした彼らの輪の中で終わった事への安堵感か疲れた表情でTシャツの袖を肩まで捩じりあげた阿部くんの姿を目にしてしまってあわてて視線を外す。もう半年以上もたつというのに、わたしの彼への気持ちはまだ止まったままのように思えた。

去年、一年の夏のはじめ 参加した野球部の応援で初めて彼の存在を知った。大雨、はじめての夏の初戦、泥だらけの野球部、そんな彼らの中でわたしはどうしてか阿部くんの姿に心を奪われた。三つ上の兄が同じように球児だったこともあって、バッテリーの強さを目の当たりにして心を持って行かれたんだ。クラスは違う。けれど運よく、同じクラスに栄口くんがいたこともあって、わたしのこの必死な思いを伝える事ができたのは夏が終わる頃だった。


「まだ信じられない。一年間も同じクラスで どうしたらいいかわかんない」

阿部くんに付き合ってもらえて、彼氏彼女の関係でいられたのはたった三ヶ月だった。夏の終わりに気持ちを告げて、冬の始まりに終わりを告げたのはどっちもわたしだった。お互いの気持ちが、どちらか一方に傾いている状態のままでは到底無理なことで、わたしはずっと苦しかった。要は、彼の方の天秤に重りが乗ることがなかったんだ。今になって思えば、栄口くんの仲介の手前 断れなかっただけだったのかもしれない。

「同じクラスだからって、話す機会がそう多いとも限らないしあんまり気にしちゃ駄目だよ」
「う、ん…わかってる」

わたしがまだ阿部くんの事を好きなのは紛れもない事実で、トラウマになったなんて言いたくないけど、去年の事を思い出すと今でも泣きそうになる。阿部くんが、部活に忙しい事はわかってた。告白をしたときも、あんまりかまったりとかしてやれないと思うから と断られかけたところを、わたしがそれでもいいからと強引に押した。いざ付き合い始めてからも、遊びに出かけたり二人で会ったりする時間は一切なくて、それでも毎日メールだけはちゃんと送ってくれて 付き合ってる証なんだとたったそれだけの事でも嬉しかった。

別れたい の一言に、わかった の一言。そんなメールの一通でわたしと阿部くんの繋がりはいとも簡単に切れてしまったことにただ、あの時は泣いて晴らす事しか出来なかった。






「じゃあ、また明日ねー。ごめんね」 「いいって。ヨシくんと仲良くねー」

ばいばい とお互い手を振る。友達は彼氏とのデートで駆け足で教室を出て行く。わたしといえば、黒板を消して、自分の席について日誌を開けた。一人、二人と、わずかに残っていたクラスメイトたちも教室を出てやがてひとりになる。大きく開けた窓からは、少し強めの風が入ってきて気持ちがいい。カーテンは大きく膨らんでは、時々ばたばたと音を立てる。

前のページで他の子たちが書いた日を見ながら今日のを埋めていく。人によって違う書き方は読んでいて少し面白い。ようやく半分を書き終えたところで、教室の扉が勢いよく開いて驚いて顔を上げる。


(あ、べ、くん)


びくり と、心臓が大きく跳ねた。瞬間に目が合ってしまって、慌てて下を向いて逸らす。他のクラスメイトなら、どうしたのー と軽く声を掛けられただろうに。ぎゅうと、持っていたペンを握った。なにも気にせず、日誌の続きを書ければいいのに手が震えて動かない。急に喉がカラカラになった気がする。

誰もいない教室、ふたりきり。

きっと忘れ物を取りに来たんだろう、上履きを小さく引き摺るような独特な彼の歩き方は前となにも変わっていない。はやく、はやく。早く彼がここからいなくなればいいのに と、そんな事しか浮かばない。彼の席は、わたしの席よりもむっつ離れた斜め前で、視界の左端に夕日に伸びた彼の影を捕らえた。どきん、どきん。息が苦しくなるほどの心臓の動きに眩暈がする。


「…なあ、」

きっといま、一瞬心臓が止まった。教室にはふたりきり、きっとわたしに声を掛けたんだろうけど理解できずに顔も上げられない。聞こえなかったと思ったのか、少しして 「 なあ 」 と一度目よりも声を大きくしてもう一度声を掛けられた。少し潤んだ目をぎゅうとつむって、覚悟を決めて、顔を、あげた。ちゃんと、まっすぐ、顔を見るのは半年以上振りだった。


「…なに?」

ちょっと笑って言えたら良かったのに、自分でもわかる位、表情が硬くなってしまった。阿部くんはまだ制服を着ていて、右手に携帯電話が握られていた。きっと、それを取りに戻って来たんだろうとわたしは思った。ただまっすぐに、阿部くんの顔を見る事は出来なくて、阿部くんの手、阿部くんの足、阿部くんの肩、てんてん、てんてんと視線をあちこちに動かしてしまう。(それでも、阿部くんからは目が離せないことに少し笑えてくる)


「あの、さ、」 「うん…?」

なんだろう、今日英語の授業で出た和訳の宿題の範囲かな?それとも数学?しばらく待っていても、阿部くんは何も言ってくれなくてだんだん不安になってくる。わたしの小さな心臓はもう、限界に 近い。そうだ、半年前のあの日も、今日みたいに風の強い日だった。

その日はわたしの誕生日で、阿部くんは毎日忙しくて、それでもほんの少しだけでも話が出来ないかなと 放課後7組に向かった。その時阿部くんの席は廊下側の一番後ろの席で、ちょうど花井くんと水谷くん、他のクラスから西広くんが来ていて彼を囲っておしゃべりしていた。阿部くん以外はほとんど話をしたこともなくて、その輪の中に入っていく勇気はなくてどうしようかと扉のところで迷っていた。そのとき丁度、カノジョがどうの という言葉がちらほら聞こえてきてもしかしてわたしの話かなと、どきどきしながら聞き耳を立てていた。


「日直?」 「…うん、」 「そっか」 「うん…?」

そっか… と、二度目にまたそれっきり、阿部くんは黙り込んでしまった。そんなことを、聞きたかったんだろうか?ざわざわと、強い風が阿部くんの黒い髪を揺らす。半年前よりも伸びた、わたしの髪もざわざわと揺れて、何度も耳に掛けなおす。ちゃり と、阿部くんの指が 落ち着かないように携帯のストラップを遊んだ。見覚えのある、ストラップ。


(…え?だって、まさか、)


びくん、また大きく心臓が動き出した。どうして、そんな言葉も何も出てこなくてただ阿部くんの手の中にある携帯のストラップに釘付けになる。だってそんな、見間違えるはずない。あれは付き合い始めてすぐのころ、友達と行ったディズニーランドのお土産にわたしが買ってきたペアのストラップだ。阿部くんのイメージに似つかわないキャラクターのそのストラップは、彼の指にもてあそばれてゆらゆらとゆれている。


「あのさ」

ぎゅうと、携帯を握る阿部くんの手に力が入ったのをみて 混乱する頭のまま顔をあげた。まっすぐに、まっすぐに。ざわざわと、阿部くんの髪は揺れ続ける。


「あきらめわるいって、おもわれるかもしれないけど。俺はまだ のこと、好きだから」


聞いてはいけない、言葉だと思った。偶然、運悪くにせよ、それを聞かなかったらわたしはばかみたいに彼のことを好きなまま付き合い続けていて、もっと傷ついたかもしれないと思ったらこうして良かったんだと何度も自分に言い聞かせた。忘れない、忘れられない、こびりついてずっと離れない阿部くんの言葉。


「な、に、冗談…」 「冗談なんか言わねえよ」 「だ、って、阿部くん」 「なに」


あの日聞いた声は、間違いなく阿部くんの声だった。そう言ったあと 阿部おまえひっでー!と、一緒にいた彼らが口を揃えて。仕方ない。わたしの所為で半ば強引に始まった付き合いに、現実を知ってしまった。少しくらい、わたしのこと好きだと思ってくれてると思ってた。去年の16歳の誕生日、どうしようもなく悲しい日。


「だって、わたしのこと好きじゃなかったんでしょ…?」

別れたい の一言に、わかった の一言。なんで と聞かれる事もなく、一瞬にして繋がりは潰えた。阿部くんの携帯番号とアドレスをメモリから削除するのに、何時間もかかった。ごめん冗談だよ と、今ならまだ間に合うかな とか馬鹿なことを考えながら覚悟を決めて削除したら「わたしと阿部くん」は「わたし」と「阿部くん」に戻ってしまったのだと知って。


「はあ!?」 

なんでそーなんだよ! 急に大きく出された声に、びくり と少し身体が揺れた。見たこともない顔で、驚いているのか怒っているのかわからなかったけどとにかく…怖い。「誰が」「え?」「誰がそんな事言ったんだよ」「誰、て…」今度はわたしが黙る番だった。確かに、直接そんな言葉を聞いたわけではないけれど でも。


「わたしが別れる、っていったらすぐにでも別れる、って」


阿部くんが、言ったんだよ。「あっちが別れるっつったら今すぐにでも別れてやるよ」間違いなく、あれは阿部くんの声だった。

「俺、そんな事言っ…!」

驚いたような表情に、わたしは心惑う。言っていない とでも、言おうとしたのだろうか。言葉は曖昧に切られて彼は俯いてしまった。沈黙。しばらくして、彼は勢いよく顔をあげて こともあろうに、つかつかとわたしの方へと歩み寄ってくる。机を挟んですぐ目の前で立ち止まって、わたしはただ何も言えず阿部くんを見上げるしか出来ない。

「別れたい って、メール送って来た前の日か?」 「え?」 「前の日、水谷たちとそんな話、してた」

それ、もしかして聞いてた? と問われて わたしは頷く代わりに俯いた。…阿部くん、覚えてたんだ。
それこそが、彼が確かにそう思っていたんだという事実。ああ、俯くんじゃなかった。すぐ傍の阿部くんの気配に、あの日のことが思い出されてうっすらと目が潤んでくるのがわかる。おねがい、おねがいだから阿部くん もう行ってよ。

「ごめん、」

それは、何に対しての「ごめん」なの?出した声は、自分の口の中で留まるにしかならないくらいの小さい音でしかなかった。それなのに、阿部くんにはしっかり聞こえていたようで。

「そんな、つもりじゃなかったんだ」 「……、」 「信じてくれなくていいよ。でも、」

のこと、好きじゃなかったとか 絶対にないから」

阿部くんの、静かな声。じゃあどうして?と、言いたくて口を開けても言葉が出てこない。


「あの頃…水谷のやつが、のことちょっと気にしてて」 「え…?」

言われたことに驚いて、私は再度顔をあげた。阿部くんはぎゅうと眉を寄せて怖い、顔。そして、「いつ別れるんだよ」という水谷くんの冗談に、阿部くんはああ答えたのだと言った。

「俺はすげー好きだったし、から言われない限り別れない自信あったから」

だから見栄張ってそう言った と阿部くんはまっすぐに言った。後になって、どうして理由も何も言ってこなかったのかという問いに、別れたいって言われてるのに、「嫌だ」なんてうざいと思われるかもしれない事言えるわけないだろ と、聞いた。

「まだ、チャンス ある?」 「え?なん、の」 「出来れば俺は、…縒り戻したいと思ってる」

思いも寄らない阿部くんの言葉に、涙がせり上がってくる。だってわたしは、去年の夏の あの時から今のこのときまでずっと阿部くんの事が好きだった。別れてしまってからもどうしても忘れられなくて、同じクラスになって本当に苦しかったのだ。
ぼたぼたと、遠慮なく涙は書きかけの日誌の上に落ちて染み、俯き損なったわたしの泣き顔を見て阿部くんは「うぉっ、ちょ、泣くっ」と焦って自分のポケットを漁って何も出てこなかったのか、折りあげていたシャツの袖をおろして恐る恐る、わたしの目元に当ててきた。

「あ、あべくっ」 「ごめん、泣かしたいわけじゃ、」 「うぅ、うぇ、あべくん、」

「わたし も、ずっとあべくんのこと、すきでした」

ぎこちなく、わたしの涙を拭き続ける阿部くんの動きが止まった。少しお化粧をしていたから、わたしの涙で濡れた阿部くんの袖は少し肌色に汚れてしまっていた。「まじで、」と、阿部くんの小さな声が聞こえて顔の前の彼の手がゆっくりとおろされる。彼の表情を見てとれて、わたしも押し上げていたカーディガンの袖をおろして右手を阿部くんに向かって突き出し、慌てて言った。

「あ、阿部くんも泣く…っ!?」

わたしのその一言に、とても驚いた表情で「なっ、かねーよ!」と大きな声で返してきてぐいと手の甲で目をこすったのを見て、わたしは微笑った。そして突き出していた手をふいにぐっと掴まれて、心拍数、呼吸数、きっと血圧まで上昇してる。

「…もっかい、付き合ってくれるか」 「ありがとう、すごく うれしい、です」



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20080924 秋夢うい