「すきだよ、圭介」
もう何年も何年も呼ばれ続けてきたはずの名前に、胸が締め付けられたのは このときが生まれて初めてだった。


飛行機を、苦手だと思ったことは今までなかった。
短期間のうちでの複数回のフライト、時差ぼけに流石に少し参り気味だった。チラリと鏡を覗いてあまりにひどい自分の顔と疲労にため息をつく。やっぱファーストとればよかったか と、マネージャーに声を掛けられて いや、いいですよ と出した声は予想外にかすれていた。ああやべえ、無言突破になりそうだなこれ と思って、せめてあちこちの方向に向いた髪は隠そうとニットを目深に被った。

少し大きめのかばんを肩にかけて、疲れた顔を隠すために色の濃いめのグラサンを選んでかけた(ああこれ若菜が誕生日によこしたやつだ。しかもやつのオリジナルデザインの) 思い切り息をすって、はいて、すって、「うしっ」と心の中で気合を入れてゲートを抜ける。

 山口選手です!山口選手が出てまいりました!
 表情をうかがい知る事は出来ませんが、堂々とした帰国です!
 山口選手今のお気持ちは!?

ああ、思ってた以上に多かった。
無数のフラッシュと、多数のテレビカメラ。何十人もの取材アナウンサーに質問を投げかけられる。ちゃんと立ち止まって質問に答えたいのはやまやまなんだけども、今まともに声出ねぇんだよなースンマセン そう思って、何度か小さくあたまを下げて口元は笑顔をつくる。思ってた以上の報道陣の数に驚いたのはどうも俺だけじゃなかったらしい。俺をかばうようにして横を歩くマネージャーが「来週会見を開きますので!」と叫んだ。うっそまじで。

俺会見苦手なんだよなー と、ようやく乗り込めたタクシーの中で声を漏らした。「しょうがないよ、一旦事務所寄るぞ」と、携帯を片手 事務所に電話をかけながらマネージャーが苦笑して言った。ようやく落ち着けたことに安心したのか、急激に睡魔が襲ってくる。ニットだけを取って、ぼさぼさの髪も気にもならなくて俺はシートに深く沈んだ。眠すぎて頭痛までする。

「戸塚さん着いたら起こして…」


高校二年の、春の終わりだった。その頃、初めての彼女が出来たばかりで 浮かれていた。携帯を片手に、ベランダに出て座り込み 彼女からのコールを待っていた。夏が近づいて来ているにも関わらず その日は少し肌寒くて風がきつい日だった。「後5分くらいでかけられるよ」と彼女からのメールを受けとってすぐ、隣の部屋の窓が開く音がして ベランダに人が出てきたのがわかった。

幼馴染のだ。

このマンションで同じ年なのは俺とだけで、しかも部屋は隣 それこそ記憶のない頃からよく一緒に遊んでいて、お互いのアルバムには小さな頃の同じ写真がたくさんあった。声をかけようかと思って立ち上がろうとしたとき、ずず と鼻をすするような音が聞こえてきて一瞬躊躇した。
ベランダの、部屋と部屋の間には 緊急脱出時には突き破る事の出来る仕切りがあって の姿を見ることは出来ない。前はよく、手すりから身体を少し乗り出して、その仕切りを避けるようにして話をしたりしていたのを思い出す。

幼馴染であって、それ以上でもそれ以下でもない。子供の頃からの延長線上。変な気を遣うこともなく、気心のしれた大切な友達。そんな風にずっと思っていた。

少なくとも 俺は。

次の瞬間漏れ聞こえてきた言葉に、大切な彼女からのコールに震える携帯を握り締めたまま俺は 呆然とする以外になかった。


激しいクラクションの音に、強引に夢の中から引き戻された。
どうやら渋滞に巻き込まれたらしいというのはすぐに判ったけど今どこを走っているのかまではわからなかった。体勢を少し変えようと身じろぎをした。「まだ結構時間かかるぞ」と言われて返事をする余裕もなく、もう一度まどろみの中へと意識を落とした。夢の続きは知っている。


避けられるようにして、あまり連絡が来なくなって 学校でも会うことがなくなったと気がついたのはそれからすぐのことだった。なによりもショックだったのは、何週間振りかに話をしたときに俺の呼び方が「圭介」から「山口」に変わっていた事だった。どうしていいかわからなかった。冗談めかして「どうしたんだよ」と聞くことすら出来ず、

それから数日後、彼氏が出来たのだと人づてに聞いた。

距離は変わっていないような気がするのに、まるでベランダの仕切りのように間にすっと 見えない板が立てられたかのような感覚だった。身を乗り出して覗く勇気もない。俺の知らないどこかで誰かの隣でそれでもしあわせに笑ってるならそれでいいと思った。最後に呼ばれた名前は今もずっと耳の奥に残る。



「まったく、」

肝心な事はいつも最後に知るのよ。
一人暮らしをしていたマンションは三日前に引き払っていた。結局、渋滞に見事なまでに足止めを食らって実家に戻って母親の小言を聞くことが出来たのは21時を過ぎた頃だった。それでも充分過ぎるくらいの夕食を用意してくれていて、「はいはい悪かったって」と苦笑しながらも久しぶりの母の手料理を心の底から味わっていた。

子供の頃、俺の使っていた部屋は、多少両親と妹の物置に変化しつつあったものの基本はそのままだった。高校を卒業してからの、そのまま。ほとんどの荷物はもう、向こうで借りた新しいマンションに送ってある。携帯に、幾つか戦友たちからのメールが届いていたのに気がついて簡単に返事を返した。ふと、昼間タクシーの中でみた夢のことを思い出してベランダへ出ると、不恰好な形をした月が見える。


「…山口?」

出てすぐ、控えめに名前を呼ばれた。声を聞くのはどのくらい振りかすらわからない。誰かなんて考えなくてもわかる…だ。「…おお、」情けないとは思いつつも、動揺してる。手すりから身を乗り出して顔を見る勇気は今もない。「よく、わかったな」「帰って来るんだって、おばさん喜んでたから」「ああ、…そっか」 手すりに背中を預けたら、ベルトの金具が当たってキン と鈍いような高い音がした。


「見たよ、テレビ」 「なに」 「おめでとう」

あの頃よりも、遥かにずっと大人になった声。記憶の底に残るあの声を、今すぐ全部塗り替えてしまいたい。
俺がずっと海外に出てプレーをしたがっていたことを、こいつは知っていた。3年、日本で蓄えつけてきた実力は外でサッカーをするにはすこし足りないかもしれない、けどそれなりの自信と力をつけて準備は万端。ただひとつ、やり残したことを除けば。


「なあ、」 「うん」 「俺の名前、言える?」

いじわるな質問なんかじゃない、名前を呼ばれなくなった高校生のころからずっと 溜まり続けてきたこのフラストレーションはもうどうしようもない。じわじわと、じわじわと、ごまかし様のないこの感情と一緒に気がついた時にはもう身動きがとれなくなっていた。


「山口、」 「したも」 「やまぐち…」

「けいすけ」小さく呼ばれた名前に、思わず目を閉じた。こんなことで、うれしくて泣きそうだ なんて。ああ、好きなんだ と気がついたのは高二の冬だった。春につきあっていた彼女とは、3ヶ月もしない内に別れていたというのに。


「高二のときさ、はじめて俺に彼女が出来たの覚えてる?」
「…おぼえてる、けど」

あれから呼び方が「山口」に変わったこと、彼氏が出来たこと、どっちがショックでどっちもどうしたらいいのかわからなくて距離を置く事で自分を慰めた。それを今もずっと後悔してる。もう、後悔したくない、離れたくない、他の誰かなんて許せない、もっとたくさん 名前を、


「二週間後に、日本を発つんだけど」 「そう、なんだ…」 「だから あした、」

あしたの夜まで、俺に時間くんない? 戸塚さんによると俺に残された、日本での自由な時間は明日一日。やり残したたったひとつのこと。5年間もの心の空白を、たった一日で埋められるとも思わない。けど、

二十四時間

「あのときの返事を、今の俺ならちゃんと出来ると 思う。だから、」
「え、なん、…なに 言って、」

「すきだよ、圭介」

今なお残る、あの時のあの言葉を心の底から引っ張って声にして出す。 肌寒い空気も、時折髪を揺らす強い風も、鼻をすする音も。まとわりついて離れない 胸が締め付けられる声色で呼ばれた名前も、全部、覚えてる。まさか聞かれていたなんて 思ってもみなかったのかもしれない。5年も経って今更、ムシが良すぎると言われても仕方ない。けどそれ以上に、



「おまえのこと、すきでどうしようもないんだ」

何年向こうにいるかわからない。日本に戻ってくるその時までなんて待てない。ほんとうは今すぐにでも、力いっぱいに触れたい。乱暴なこの気持ちを全部、愛しさで埋め尽くしたい。

空白(スペース)


「そっち、行ってい?」 「…っだめ、」 「…なんで」 「なんでもっ」

しばらくすると、ずず、ずず と時折鼻をすする音が聞こえてくる。5年前のあの時と、おなじ。泣かせているのは多分どっちも俺だけど、泣かせている理由はきっと違う。一時間後にそっち、迎えいく。用意しといて どこ、いくの あー、…どこ行こう。
溜めに溜めた一世一代の告白は、準備もなんもないどころか完全な行き当たりばったり だ。

どこでもいい。と一緒なら、


「あ、3丁目の駄菓子屋の並びにある丹羽ビルの前とかどう?」 「え、サンタ屋の並び?のビル…の、まえ、って…」

に詰める

ラブ、ホ、じゃん、ばかっ、圭介! 怒るか泣くか笑うかどれか1個にしてねー うっ、うるさい!
なんも知らない子供の頃に、大人になったら泊まれるのだという、夜になるときらきら光るお城にいつか一緒に来ようと約束をした事を思い出した。純真無垢な子供って怖い。

「圭介」 「ん、」 「けーすけ」 「うん、」 「けぇ、す、け…」 「なんだよ」

「すき。ずっと、すき、だった」

カキ と、今度はスガに貰った腕時計が当たって音が鳴った。ぐっと力を入れて手すりを越えて移動すれば、驚いた泣き顔に、愛しい姿。思い切り息を吐いて腕の中の存在を実感すれば、鼻の奥がツンと突っ張る。ああくそ、あったかい。

「まだ、一時間、経ってない」 「うっせ。…もう我慢できるか ばか」

5年も我慢した。
本当はもっとかっこよく決めたかった。腕いっぱいの花束に、高級ブランドの指輪と最高の言葉を用意してレストランまで予約したりして。いや無理だ。これまでの他の女だったらなんでもキザなこと出来たのにこいつには無理だ、絶対。

俺の知らないところで、でもしあわせならそれでいいと思ってた。携帯番号が繋がっていれば、それで少しは安心だった。
うそばっかりだそんなの。
他の男と なんて考えたらはらわた煮えくり返りそうんなるし、明日パスポート作りに行こうとかその後指輪買いに行こうとか俺がしあわせにしたいとかしあわせにしてほしいとかしあわせになりたいとか傍にいてほしいとかいっぱい触りたいとか泣きそうだとか愛してほしい とか。

そんなの全部言ったらこいつは笑うだろうか。









o-19fest*3rd様提出作品
これあれ、初ケースケくん。

20081202(20080806) 秋夢うい