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自分の携帯電話が手元に戻ってきたのは、それから一週間後のことだった。震える手で出た着信。試合の為、新潟行きのバスの中なのだと、騒がしい後ろに彼は控えめな声で言った。それならば宅急便かなにかで送りましょうか と問うわたしに、直接返したいと彼は申し出た。 願ってもないことじゃないの と、翌日報告したときにあかり先輩は言ったけれど、

「怪我とか、しなかった」

息も出来ない状況というのは、今の状況のことを言うのだろうかと 良く冷えた水を一口飲んでそう思った。約束の時間までに夕食を食べてしまおうかと、それよりも早い時間に店を訪れて、同じ考えで先に来店していた彼に驚いた。折角だから一緒に食べよう と、気を遣って彼からそう言って貰えたのはもっと驚きだった。早々と携帯を交換して、律儀にもしっかりと充電されていた事も同じだと 苦笑するしかない。

はじめてここで会ったとき 彼が、人付き合いが得意そうだとは思えなかった。だからこそ少し困惑したけれど、それでも直接返したいと言った理由が、やっと判った。ぶつかって、わたしが怪我をしなかったか それを確認したかったのだ。

「大丈夫、です、…すみません」

あの時はわたしもぼーっとしていて、と言えば「や、俺が悪かったんだ。ごめん」と言われ、顔をあげれば真剣な表情でこちらを見ていて「…ありがとうございます」と返せば気まずそうに視線を逸らされた。けれど、あの時のような表情ではなくて 照れた様に動いた視線になんだか少し安心した。

「試合、は、どうでしたか?」
「…え、」
「…この間、電話で試合だと仰っていたので、」

すみません。 余計な事を聞いてしまったかと、焦って謝ってしまった。けれど、運ばれて来た目の前の料理を 食べ終わるまでは席を立つわけにはいかないし何より同じテーブルで終始無言というのは正直辛い。なんだか彼と話をするのは難しいな と、思ってハンバーグを一口運ぶ。ああ、やっぱりマスターのハンバーグは美味しい。

「…うまそうに、食うな」
「っん、」

急に言われて一瞬喉に詰まらせそうになる。しっかり飲み込んでから、「かお、に出てましたか?」「うん」 ああ、恥ずかしい…。そう思って顔が熱くなる。すると「…はは」と小さく声が聞こえてきて、恥ずかしいのを堪えて熱い顔を上げると彼が少し笑っていた。恥ずかしいを通り越して、うれしくなって、わたしも思わず笑ってしまう。

「あー、のさ」

あー、えーと と、しどろもどろになって落ち着かない様子で、小さくなった氷の入った水のグラスを揺らしていた。「俺の、事さ」「…はい、」その後続けて問いはもらえなくて、彼はそのままグラスを口に運んで一口水を飲んだ。二週間前の、ことを言っているのだろうか?あの日と同じ、少し派手な柄のブラウンのキャップが彼の座る横に置かれていて、ジーパンも変わりないが今日は少しシックなジャケットを羽織っていた。

「さな だ、選手…」 思わず呼んでしまった名前、

「夏に、偶然テレビで観ていたんです」
「…ドイツ最終予選の?」
「あ、はい多分それです。正直サッカーのこと 全然わからなくて、本当にたまたまテレビを付けたときに…その、真田選手がゴールを決めるとこで、それがすごく印象に、残っていたんです」

すみません と、結局最後にはまた謝ってしまった。あの日、ここで、偶然出会った事よりも、その事であんなにも驚き、恐怖したあの視線が ずっと離れず何故か悲しかった。わたしの中の真田一馬という選手は、あくまでテレビ越しに見たそんな非現実的な存在で、とてもきらきらと していた。未だに後悔している。あの時名前を呼ばなければ。携帯を拾わなければ。そうすれば今、こうして彼と食事をしている哀しい奇跡すらなかったのだ。…それが一番良かったのだと、後悔している。

「ありがとう」

沈んでいく気持ちの中言われた意外なその一言に、ほんのすこしだけ 救われた気がした。



その後から、彼はとても穏やかに見えて 食後のホットコーヒーを飲み終えるまでとりとめのない話を幾つかしてくれた。気がつけばもう二時間は経っていて、21時を少し過ぎたところだった。話に少し夢中になりすぎた。わたしは構わないけれど、真田選手はもしかして大事な試合や練習を控えているかも知れないと、今更ながらに気がついてわたしは慌てた。

「すみませんっ、こんなに遅くなってしまって」
「あ、いや…」

もうこんな時間か、と慌てるわたしに驚いて腕時計を見た。帰るか と、ひとり言のように彼は呟いてキャップを被り すっとテーブルに伏せて置かれていた伝票を持ってレジへと進んだ。わたしも荷物を掴んですぐ彼の後を追い、元々分けて打って貰っていた伝票を受け取ろうとして、

「いいよ、俺が出すから」
「そ、そんなわけにはいきません!」

自分の分はきちんと自分で払いますから と言っても聞き入れて貰えない。レジの向こうで店員の実羽さんがくすくすと笑っていた。それでも、ほぼ初対面の彼に、そんなことをして貰う義理もない。中には、こういった場所で割り勘するのを嫌がる男性もいるのはわかっている けれど、

「あ、あのっ、本当に、」
「あー…、」

じゃあ次、奢ってくれたらいい と言われて耳を疑った。あの時のように深くキャップを被っているので顔は見えない。「…ありがとうございます、」 ごちこうさまでした と彼に少し頭を下げてわたしはあきらめて言った。「うん」と穏やかな彼の返事。…体よく、かわされてしまった。次回なんて、あるはずもない機会を理由にされてしまっては、これ以上しつこく言うことも出来ない。

「ごめんこんなに遅くなって、…送るよ」
「い、いえ!もう本当に結構ですから」
「でも…」
「電車で一駅ですし、自宅もそこからすぐですから」
「そ、か…じゃあ、…気を付けて」

今日はありがとうございました。店先、そう言いながら軽くお辞儀をして、わたしは彼に背を向けた。奇跡は三度目の今日で終わる。出会うはずのなかった、奇跡。神様がくれた、わたしへのご褒美だったのかもしれない、そう考えればいい思い出に残りそうで───

「あのさ!」

三、四歩 歩いたところで、後ろから聞こえたその声が彼のだとわかって、わたしは足を止め 振り返った。彼が深くかぶっていたキャップは少し持ち上げられて、しっかりと表情が見てとれた。それから一歩だけ、彼が近づいて、少しだけ視線が上へ下へと動いて落ち着かない。右手が首の後ろを掻いて左手は親指だけがジーパンの前ポケットに置かれている。ただぼーっとしてその様子を目の前に見てもやはり、非現実的なものを観ている様な気がしてならない。

「なまえ、」
「はい?」
「名前、教えてもらっても?」

落ち着かない様子から一変、すっとしたまっすぐな視線で言われて意識は奪われる。ああそうか、自分の名前をまだ 名乗っていなかった事に今更ながらに気がつかされた。しまったわたしが一方的に知っていただけで、大変失礼だったではないか。

「っすみません、気がつかなくて」
「や、俺も聞かなかったから」
、です」

です、言って彼が「今日はありがとう、さん」と少しだけ微笑ってくれた。名前を呼ばれても尚、現実的に思えないのが不思議だ。11月も半ばすぎ、夜も遅くなれば随分と寒くなってきた。彼をテレビで観てから三ヶ月が経っていた。わたしの中ではずっと、テレビの向こうのきらきらの人。部屋に貼られた一枚の見慣れたポスターの人。今日の日の時間は、本当に。

ただの社交辞令でもない。彼をそうさせる何かが、今日のわたしにあっただろうか。繋がれた。この出逢いを繋ぐチャンスを掴んだのは彼か、わたしか。周りの喧騒も、頭の端から消えては静かになっていく。期待なんてしたくない、無機質なバイブ音と共に感じたあの絶望感は、自分への卑しい気持ち。繋がれる先へ、彼もわたしも 何を望むと言うのだろうか。奇跡さえも越えた、奇跡。

「…また、電話してもいい?」







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あれだけ悩みに悩んで結果このかたちに落ち着く。おー、真田さん積極的ィ。

20080408  秋夢うい

( 次への約束 )