ナイルの



夏でもないのに、ひどく汗を かいていた。時間を確かめるために、携帯に伸ばした手は目で見て判るほど震えていた。午前3時53分。起きて出勤の準備を始めるにはまだまだ早い時間だ。額や首にひどくかいた汗を拭おうとベッドを抜け出し洗面所に向かった。
洗面台の電気をつけ、その眩しさに目を細め、震える自分の呼吸音が耳障りで勢いよく水を出せば、ようやく少し落ち着く。3月、春先とはいえこの時間はまだまだ寒く冷えた汗に体も震えた。急激に気分が悪くなって嘔吐した。生理的に涙が浮かんで、その苦しさに悔しくて更に涙が浮かぶ。誰もいない、この家の闇と静けさが怖い。

「だいじょうぶ、…たいじょうぶ」

自分にそう言い聞かせてふたたびベッドに潜り込んでも、恐怖と震えは止まらない。



「顔色悪いわよ、」

大丈夫? 始業前の朝礼。毎日聞きなれた 部長の話を聞きながら、隣に立つあかり先輩が小さく声を掛けてきた。結局あれから一睡も出来ず、朝食も採れないまま出勤したのは、年度末の忙しさの中の社会人としての責任感からと なにより家に独りで居ることが怖かった。「すみません、風邪引いたみたいで…」 でも大丈夫ですとわたしも返して朝礼は終わり自分のデスクについた。
コーヒーか紅茶をいつもはそばに置くところを今日はポカリスエットにした。よく冷えたそれを一口飲み込めば胃の不快感も少しは和らぐ。

「ねえ、大丈夫?ほんとに」
「はい、明日は休みですし、今日一日くらいなんとか…」

「…それも心配だけど、」

あたしが言ってるのは別の事よ。いつもより いくらか鈍い仕事の手を止めて隣のあかり先輩を見れば、滅多に見せないような至極心配そうな表情に わたしは気付く。

「隠さなくていいわよ」
「…すみません」

「…何か、あったらすぐ言ってよ」

心配してるの、あたしだけじゃないんだからね と言われて、「ありがとう、ございます」 うっかり泣きそうになり、ぎゅと唇をかみ締める。大丈夫、大丈夫なんだから こんな心配をかけているようじゃ駄目だ。「…ねえところで、最近 真田一馬とはどうなの?」次に出た、いつもと変わらない先輩の言葉に、わたしは安堵して微笑った。そうだ 真田さんとは明後日、会う約束をしている。


+++


「かえって気を遣わせてしまったみたいで…すみません」

一日早いけど と、渡された可愛らしいボックス包みはホワイトデーのお返しだった。前の月のバレンタイン、数日遅れてわたしはガトーショコラを作って真田さんに渡した。意外だったのか、驚いてほんとうに貰っていいのか と聞く真田さんに、貰ってくれないんですか?と意地悪く返せば彼は慌てて、喜んで受け取ってくれたのだ。

「開けても、いいですか?」
「うん。…あー、でも やっぱ、なんか照れるし 家で開けて」

「わかりました、」

ありがとうございます と、笑って言うと彼も少し恥ずかしそうに微笑った。手のひらには収まりきらないほどの大きさの箱の、巻かれたリボンを潰さないよう気を付けながらバッグに仕舞う。帰って、開けるのが楽しみだ。


「なんかさ、」
「はい?」

「…体調、悪い?」

言われて、一瞬返事が遅れてしまう。「そんなことないですよ?」と返せば、「ならいいんだけど」と、安心したような声。ちょっと痩せたような気がしたからさ、気悪くしたならごめん と次いで言われて驚く。実際、この一ヶ月で3kgは 痩せていた。

「…すこし前に体調崩してて、確かに体重は落ちました」
「え、ほんとに!悪い、呼び出したりして…」
「もう大丈夫なんです、…ありがとうございます」

「…こういうのって、セクハラになんのかな?」

心配そうに眉根を寄せて問う真田さんに驚いて、わたしは思わずわらってしまう。彼は、一緒に居て気持ちがいい。友人であるとか、男と女であるとか、そういう複雑な感情を除いたとしても、わたしは彼という人間にとても惹かれているのは最近自覚した。どうしてわたしなのか?ずっと気になっていたけれど、今はわたしを友人として選んで貰えた事をとても感謝している。


「…訴えますよ?」
「っ!それはマジ勘弁…!」

大袈裟に焦る彼の様子に、わたしは久しぶりに思いきり 笑った。

食事をしたあと 彼は必ずわたしをマンションの前まで送ってくれる。車が止まって、「ありがとうございました」と、シートベルトを外しながら運転席の彼を見る。いつもなら、「またな」とやさしく微笑ってくれて別れるのに今日の真田さんはなんだか様子が違った。組んだ両腕をハンドルのうえに乗せて、難しい 顔。不思議に思って、「真田、さん…?」と声を掛けると、「うん、」と小さく声を出して右手をくしゃりと自分の髪にさしこんだ。

どくん と、大きく心臓が跳ねた。少ししてわたしのほうを向いた真田さんは、いつものわたしを見る瞳と違って見えた。急に怖くなって、ぎゅうと、膝の上に乗せていたバッグの紐を力いっぱいに握り締めた。「悪い、なんでもない」次の瞬間には、いつものように優しく微笑う真田さんで、


「またな。…おやすみ」

おやすみなさい と、震えるこえを隠してわたしもそう返し、車を降りた。おぼつかない足取りで自分の部屋へと戻る。ソファに腰を落ち着けて、ホワイトデーのお返しに頂いたものを思い出してバッグから取り出した。リボンを綺麗に解いて、包装紙も丁寧にあける。…香水だ。細身の美しいボトル。栓を開けて、すぐに香りが鼻をつく。

エルメス ナイルの庭

さわやかでいて、かつ上品なその香りはまるで真田さん 彼自身のようだと、まだ鎮まらない心臓に そんな事を思った。わたしなんかには勿体無いくらいの 至上の、香り。







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ほんの少しの、変化

20090613  秋夢うい

( ナイルの庭 )